nach meiner Meinung

「わたしの意見では」。主にジェンダー領域に関わるような話を、学問レベルには足りないくらいのところで書いていきます。

シリーズ拡大解釈1・ドラクエの花嫁論争で死にたくなった。

お久しぶりです。

ちょっと、自分にとってのここのルールみたいなものをカチカチに決めすぎて、面倒になって放置してしまいました。
悪いところです。
なので、最初の宣言は守りつつ、もう少しゆるくいきたいと思います。
とりあえず思ったことをダラダラ書いていこうと思います。

シリーズ拡大解釈とは

なので、タイトルにつけた「シリーズ拡大解釈」も、思いつきです。
続くかもしれないし、続かないかもしれない。
どういう意味かというと、何かの事象に対して、本来的には含まれていないであろう意味や意図をわたしが勝手に見出し、勝手に理論立てて、大概の場合勝手に辛くなるという一連の脳内ルーチンを公開するという意味です。
今日は死にたくなるくらい辛くなる拡大解釈を生み出してしまった。それがこちら。

ドラクエ花嫁論争

わたしはドラクエやったことないです。
一回も。まったく触れたことないです。
そんなわたしが、友達からこの部分だけ聞きました。
ドラクエ5には、主人公が2人の女の子のうちひとりを結婚相手に選ぶという部分がある。
 ひとりは幼馴染、ひとりは金持ちの娘だ。
 主人公は金持ちの父親から防具を譲り受けるが、
 “条件として、娘と結婚してくれ”と言われる。
 女の子は2人とも主人公に好意を抱いている」

う…

うわあああああああ


鬱だああああああああああああ


ここでわたしの鬱スイッチがオン。
わたしはこの瞬間に金持ちの娘(フローラというらしい)にがっつり感情移入してしまったのでした。

ここから、なにゆえにわたしが死にたくなるほど憂鬱になったか説明していくんですが、
未プレイゆえにディテールも、キャラの性格も知りません。
上に書いた、友達からの情報だけで妄想したものですので、
そういうつもりで読んでいただければ幸いです。


何故フローラのことを考えて鬱になったか

  • 交換条件にされてるのが辛すぎる
まずこれ。
父親は、「娘を嫁にやる」ことを、「防具を譲る」ことの交換条件にしてるんですよね。
取引の基本はギブアンドテイクです。
防具を譲る、これはギブですよね。
ということは、娘を嫁にやる、これはテイクになるわけです。
…ん?
嫁の貰い手もないお荷物の娘を処理してくれなきゃ防具はやらん!てこと?
と思い友達に聞いたところ、そうではないと。
父親も主人公を大層気に入っており、「お前になら娘をくれてやってもいい」というニュアンスだと。

ふむ。

いや、でもさ。


  • 主人公にとって交換条件として提示されて成立するのがイヤ
今度は主人公サイドから見て、
防具を貰う、これはテイクなわけです。
じゃあ、フローラとの結婚はギブなわけ?

わたしの好きな映画に、
To be free, one must give up a little part of onself
(ひとは、自由になるためには自分の何か一部を手放さなければならない)
とゆー台詞があります。
何かを得るためには何かをあきらめる、何かを我慢する必要がある。
ギブアンドテイクのギブは、ギブアップのギブなわけです。

それが、ここでは、フローラとの結婚なわけです。
つまり、フローラと結婚したくないと。

だって、フローラと結婚したかったら、この交換条件は成立しません。
主人公は何も失わず、むしろウハウハです。

これが悩まなければいけない選択として成立するのは、
フローラとの結婚が主人公にとってマイナスであるからに他ならないわけです。

自分が好きな相手にそんな風に思われて、あんまり惨めです。
片思いしてるだけなら良かったのに、結婚なんて土俵にいきなり乗せられて、しかもその乗せ方が、相手にとってのデメリットとしての提示です。
すでに死にたい。


  • しかも自分と引き換えなのはたかが防具
モノと同等、というか、そのモノを得るために支払う代償と定義づけられるわけですよ。フローラは。
あんまりじゃないですか。
父親の提示の仕方は、要は脅迫ですよ。
「この防具が欲しいんだろ?ん?
 まあ、くれてやってもいいが…
 その代わり、うちの娘の結婚しろ、それが条件だ。
 ほら、どうした?欲しいんだろ?
 防具に、大事な娘までつけてやるってこっちは言ってんだ。
 それともてめぇ、うちの娘になんか文句でもあるのか?ああ?」
とまあ、これでは、粗悪品を売りつけるヤクザです。
明らかに、父親が「主人公は娘との結婚を望まない」という認識を持っていなければ、成立しない取引なわけですよ。


  • もし主人公がフローラを選んでも地獄
こういう選択肢が登場した以上、やっぱり主人公は幼馴染が好きなんでしょうね。
じゃなきゃここで悩まない。
主人公の意思決定はプレイヤーに委ねられるとはいえ、ストーリー展開的に既に決められたスペックなんだと思います。
好きな女を取るか、金銭的、物質的な利益をとるか。
フローラは後者にくっついてきてしまう厄介なおまけにすぎない。
それなのに、フローラは主人公が好き。
つらすぎるだろう…。

それに、万が一主人公が自分の気持ちでフローラを選んだとしても、フローラは最早そう思えない状況に追い込まれています。
父親によって、「防具を得るために避けて通れないデメリット」として定義づけられてしまっているから。
きっとフローラはこう思うでしょう。

彼にはこの防具が必要で、そのために好きな幼馴染を諦めて、私を選び、そして私を苦しめまいと嘘までついている。
私は彼を苦しめたくないのに、彼が欲しいものがどうして同時に手に入らないのか。
私はなんと邪魔な、余計な、この世界に不要な存在なのだ。
私がそもそも存在していなければ彼は幸福になれたのではないか…。


  • そもそも父親がわるい
ちゅーか、そもそもなんでこのクソ親父は、自分の娘をここまで苦しめるような、馬鹿なことを言ったんでしょうか。
そんな交換条件を出さなかったら、主人公が本当にフローラを好きになり、フローラに結婚を申し込んだとしても、フローラは自分を責めずに済んだのに。
何かの見返りに娘と結婚しろ、なんて、親の言うことじゃないですよ。
「見返りがないと結婚したくないような女」に、自分の娘を貶めるなよ。
見返りなんかなくても、娘さんと結婚させてくださいという男に、娘をやれよ。
なんなんだよ。このクソ親父。
娘はてめえの持ち物じゃねえよ。
娘を尊重しろよ。

フローラは、本当だったら父親に向かって怒るべきですね、そんな交換条件を出した時に。
それは主人公にも、私にも失礼だと。
私は、主人公が私を好いてくれていないんであれば、結婚したくない。主人公が幸せになって欲しいから、わたしがそれを妨げるものになりたくいと。


  • というわけでナツメの選択は幼馴染一択
こうまでフローラに感情移入したので、もちろんフローラには幸せになって欲しいのですが、
どちらの選択肢を選んでもフローラが不幸になるのは目に見えてるので、
もしわたしがプレイしたら幼馴染の方を選びます。
フローラを選んでも誰も幸せにならない(クソ親父だけが幸せ)だけど、幼馴染を選べば、主人公と幼馴染は幸せになれますからね。
まあ、フローラ自身も、好きな相手に、愛されてないのに結婚“してもらって”、色んなものを諦めさせて一緒にいるんだという自責の念を一生感じるよりは、好きな相手と幸せに暮らしている主人公を遠くで見守っている方が幸せでしょう。


  • ちなみに、もし自分が「選ばれてしまったフローラ」だったら
ここが最大の死にたいポイントなんですが、もし自分がフローラで、主人公に選ばれてしまったらということを考えてしまったのです。
さっきも書いたように、「主人公は防具のために好きな相手を諦めて、好きでもない自分と我慢して結婚したんだ」という前提がありますよね。
なおかつフローラは主人公のことが好きなので、幸せになって欲しいのです。
主人公が幸せになるには、好きな相手と防具を同時に手に入れるには、どうすればいいのか。
そのためには、自分が邪魔だ。
だったら、一度防具を手にし、父親に奪い返されない確信を持てた段階で、私が死ねばいい。
でも、明らさまな自殺では主人公が自分を責めてしまうかもしれない。
事故、あるいは失踪を装って、私がこの世から姿を消せば、すべて丸く収まるんだ。
それだけが唯一の解決法、彼が何も失わず、幸せになれる方法なんだ…




ああ…死にたい……




ちなみに実際はそんな話じゃないらしい

今日の昼休みはこれで憂鬱になって死にかけてたら終わりました。
あとで調べてみたら、フローラは実際はもっと強かな性格のようで、思いつめもしないようで、良かった。

でも、この論争についての記事とかまとめとか見ると、やっぱりプレイヤーの一般的な意見としては
「気持ちを優先して幼馴染を選ぶか、利益のためにフローラを選ぶか」
という論調で、フローラの気持ちはほとんど無視ですね…。
完全なかませ犬じゃないですか。
わたしはかませ犬キャラを見ると、「この人にも人生があるのに、別の人を引き立たせるためだけに存在しているみたいな扱い、ひどすぎる、自分の人生がそんなだったら嫌だ…」とすごく鬱になってしまうので、また憂鬱を深くしたのでした。

なんというか、フローラがどうこうというか、
  1. わたしがいかに愛されないことに怯えているか
  2. にもかかわらず、「愛されない」ものに積極的に同化していってしまう姿勢
  3. 超自罰的な思考
が明らかになっただけという気もしますが。
でも親父は本当にひどいと思うぞ!


ちなみに友達は、
「ナツメはドラクエに感情移入すると思う」と言ってこの話を始めたので、
その読みは当たりすぎるほど当たっていたのでした。

切り取られた身体は誰のものか

こんにちは。

 
※はじめに注意です。

今回は盗撮についてのニュースを扱いますが、わたしは盗撮を肯定しません。犯罪行為と認識していますし、罰されるべき、防止されるべきだと思っています。

以降、本文中に、「盗撮を否定するわけではない」と読み取れる文章が登場する可能性がありますが、それはそれ以上の意味はなく、わたしは常に上述の前提に立っています。

誤解を招かないように気をつけはしますが、読者の皆様におかれましても、以上を念頭に置いてお読みいただければと思います。

 

さて。

「道になりたい」の人、再犯したらしいですね。

「側溝に5時間いた」…のぞきの疑いで28歳男を逮捕 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

前回も、見つけた人はそりゃあもう(ホラー的な意味で)怖かっただろうなあと思ったので、よく覚えてました。

今回は、このニュースと、それを見て思い出したことから、わたしが抱いている次の疑問について考えてみようと思います。

それは、切り取られた身体は一体誰のものなのか?という疑問です。


側溝盗撮と「脚」盗撮

昨日このニュースを見て、ふと思い出したのが、何年か前にTwitterで見かけた、コミケでの盗撮に対する注意喚起のツイートです。

ちょっと探したのですが、だいぶ前なので見つからなかったので、うろ覚えですが。

内容としては、「最近コミケで脚の盗撮をするやつが出没している。コスプレイヤーのみならず、ミニスカートやショートパンツを履いた売り子、一般客も被害に遭っているので注意されたい」というものでした。

「脚」という部分のみを狙い、多数の女性の該当部分を撮影しようとしたその脚盗撮犯と、今回の側溝男は、なんだか似ているなあと思ったのです。

 

たぶん、わたしが気になった部分は「個人を識別せず、脚やパンツ(局部)といったパーツのみに執着しているように見える」という点なんだと思うんですね。

「この娘可愛いからパンツ見たい」ではなく、「女性の脚を見たい、写真に撮りたい」「女性のパンツを見たい、写真に撮りたい」という動機だと思うんですが、わたしが気になっているのは、その動機そのものというよりは、犯人たちが向けている視線のベクトルと、こういったニュースに対峙した時に女性たちが感じているベクトルが噛み合っていない? ように感じる? という部分なのです。

 

「パンツ」を撮ったのか、「私」を撮ったのか

※再び注意です。

まず何より優先されるべきなのは被害に遭われた方の心理状態だと思います。被害に遭われた方が傷つくのは当然だと思います。

そういった方々にはなんの落ち度もありませんし、犯人は罰されるべきだと思います。

ここから先には、被害者の方々の思いや考えとは、違う意見、見方が出てくるかもしれません。

しかし、それは被害者の方を否定するものでは決してありません。

犯人に寄り添うつもりはありませんが、犯人の心理状況を想像してみようとする試みが含まれます。

ここまでの説明で、不快になりそうと感じられた方は、申し訳ございませんが、ここから先をお読みになるのはご遠慮いただければと思います。

ご了承いただけましたら、引き続きお読みください。

 

「道になりたい」のニュースで、犯行があった道を利用する女性へのインタビューをやっていました。

主に20代くらいの女性たちで、みんな「こわい」「気持ち悪い」と、恐怖感や不快感を露わにしていました。(とはいえ、少し笑っちゃっていたのも印象的でした。その気持ちはわかる気がします)

んで、わたしはそれを見て、「ふーん、そんな感じなのかぁ」と思ったんですね。

というのも、わたしは、そんなに自分ごととして捉えられなかったからです。

わたしがこわいと思うのは、「側溝覗いたら目があったらすごく怖いだろうなあ」というその一点のみで、「側溝の中からパンツを見られている」ことにはそんなに恐怖を覚えない、覚えられないのです。

 

インタビューの女の子たちは「階段とかなら(スカートの中が見えないように)気を付けるけど、こんなところ(平たい道)では気をつけられない」と言っていたので、彼女たちが「こわい」「気持ち悪い」と言っていたのは、あり得ないところから人の目玉が覗いていることではなく、知らない男が自分のパンツを見ようとしていることだと思って、おそらく間違いないと思います。

そして、この感覚は至極真っ当だと思います。

 

たぶん、わたしの感覚の方がずれていて、それはなぜかと言うと、わたしは「見られる」という体験ではなく、犯人の目線、つまり、「彼は何を見ようとしていたのか?」に重きを置いて見てしまってるからです。

そして、「彼は何を見ようとしていたのか?」の答えは、おそらく、「女性のパンツ」であって、「私」ではないと思うのです。

仮にその時見られたものが、「私の所有物であるパンツを着用した私の局部、並びに脚部」だったとしても、犯人の「道になりたい」さんからすると、その目の前の物体に「私」という要素は一切付与されておらず、それは単に「女性のパンツ」という彼の求める概念(しかもそれには「道になったような視界で体験する」という条件が付与されている)の具象化のひとつの形にすぎないのではないかと。

だから、つまり、彼は「私」を見、盗撮したわけではないと思うのです。

 

まあ、だからと言ってやっていいわけでも、許されるわけでも当然ありません。

実際に「見られた」人にとってはおそろしく、不快な体験であったことは容易に想像できますし、本当に迷惑な行為だと思います。しかも再犯。

 

なので彼ベースで語るのはここまでにして、ここからはわたしベースで考えていきましょう。

わたしにとっては、彼の目に映る、「個人性が排除された女性のパンツというイデアの具象化」は、もはやわたしだとは感じられないのです。

わたしは切り取られた身体の一部の視覚的情報を、自分のアイデンティティに含めていないということだと思います。

実際、ほかの方はどうなのでしょうか? 脚盗撮問題で言えば、本当に、脚のごく一部分が切り取られた写真を見て、「これは“私”だ!」と思うものなのでしょうか?

 

切り取られた身体は誰のもの?

おそらく、今回の疑問を本当に精査するためには、フェティッシュを持ち出さなければならないと思います。

ですが、まあ、このブログはあまり専門的になりすぎない(というか、そこまで調べられない)のもアリというスタンスでやりたいので、今回は参考資料なしで、わたしの頭のなかのことだけで書いております。

 

といいつつこんな言い方になってしまうのですが、身体に向けられる視線というのは、とても細分化されてきていると感じています。

これは、「要素萌え」的な消費スタイルの延長なのではないかと思います。

このキャラクターの全体が好き! ではなく、ツインテールが、ピンク髪が、ツンデレが、好き。そういう好意や欲求の持ち方が今ではごくごく一般的だと思います。

例が漫画アニメ的な文法に寄りすぎてしまいましたが、要素はなんでもいいのです。要は、似た要素を持ったものなら代替可能な好意、欲求なのです。

これが、昔は無かったかと言われると、そう断言する根拠をいまわたしは持っていません。

昔からある消費スタイルかもしれない。でもたぶん、インターネットの発展、とくに情報の受け手だった消費者が自ら情報発信することが一般的になったことで、それが表面的になり、そういった消費スタイルが肯定されているような空気になってきた、ということは言えるんではないかなと思っています。

キャラクターとか、ものとか、そういうものに対しては、別にこういう「要素萌え」をしてもあまり問題はないと思うのですが、この視線が「ひとの身体」に向くと、なんだか少しややこしくなる気がします。

キャラクターそのものには作者がいますが、キャラクターの要素自体には所有者がいません。

でもひとの身体には、所有者がいます。

 

本来的にはひとの身体は切り取れない(物理的な意味で)のですが、視線や、その代替物としてのカメラで、擬似的に切り取ることが可能です。

もちろん、写真という表現は昨日今日出て来たものではありませんし、その歴史の中で、身体の一部のみを切り取った作品がなかったとも言いません。

 

…なんか、今更な話ですし、犯罪を起点にしているので誤解を招いてしまうような話の展開になってしまったなあと、書きながら気づきました。すみません。

書くことで整理してる部分が大きいので大目に見てください。

 

さて、話を戻して。

時代性でないにしても、その擬似的に切り取られた身体は、すでに「その身体の所有者」のものではないのではないか? という疑問は成立するかと思います。

個人を識別するのは、視覚的にはやはり顔が一番のポイントになるかと思います。ついで背格好などの全体的なシルエットや印象、そのほか、特徴的な黒子や傷があれば、それもポイントになるでしょうが、そういうものがない場合、部分的になればなるほど、個人を識別することは難しくなってきます。

たとえば、AKB48のおそろいのライブ衣装を着た、その靴下とスカートの隙間、いわゆる絶対領域だけを切り出して、その人物を当てることは出来るのでしょうか

もしかしたら、コアなファンなら出来るのかもしれませんが、普通は無理だと思います。

そして、本人も、わからないんじゃないかと思います。

そうなった時に、その画像に写っている絶対領域は、誰のものなのでしょうか?

 

何度も言います。

盗撮されて不快なのは当然です。嫌がっていいんです。犯人がやったのは悪いことで、許されないことで、罰を受けるべきなんです。

だから、わたしがこう思ってしまうのは、わたし自身のコンプレックスによる認識の歪みのせいも、きっと多分にあるのでしょう。

でも今回はそれを棚上げして言います。戯言なので真に受けなくていいです。

 

どうしても、わたしには、「脚を盗撮された」、とか、「側溝からパンツを覗かれた」という感覚が、すんなり入ってこないのです。

切り取られた身体はすでにわたしのものではないと思ってしまうのです。

盗撮行為、あるいは(隠された部分を故意に暴く)覗きという行為は、処罰の対象で、許されるべきではない。それはすんなりと落ちる。

でも、それ以前に、そういった犯罪行為に走るまえに、彼らが視線を用いて「私」(彼女たち)の身体を切り取っていることは、罰することも、止めることも出来ないと、思ってしまうのです。

切り取られた身体が自分の所有物でないとしたら、主張できるのは「私の身体を勝手に切り取らないで!」ということだと思うのですが、写真という有形物として勝手に切り取ることはやめさせられますが、見ることをやめさせることは出来ない。

だとしたら、根本的には解決してないような気がするなあ、とも思ったりしてしまうのです。

 

今回は着地点を設定できないまま書きはじめてしまったので、なんだかまとまらない話になってしまいました。

オチはないのですが、冒頭から言っているように、「切り取られた身体は誰のものなのか? その身体の持主のものなのだろうか?」という疑問自体を、言いたかっただけというのが、本音かもしれませんね。

まとまりませんが、今日はこの辺で。

nach meiner Meinung はじめに

こんにちは。Twitterからじゃない方ははじめまして。

これまで、Twitterにだらだらと書き連ねていたのですが、いろいろありまして、ボリュームのある話はまとめようと思ってブログを作りました。
 
まずはざっとした経緯の説明と、所信表明みたいなものを書いてみます。

 

ブログにしようと思った理由

わたしは、もともとジェンダー論の勉強をしてましたので、そういう領域の問題については興味があるし、結構呟いてました。
そういう領域、というのは曖昧ですけど、まあ性の絡むことがら全般です。
ですけど、わたしは自分のことをフェミニストだとは思ってなくて。このことはそのうち別にお話しできればと思います。
 
そういう学術的アプローチとは別に、というか、そういった方向に進むようになった経緯に、わたしの個人的なコンプレックスやなんかがあります。
これもまた、必要に応じてお話ししていけたらなと思います。
 
Twitterでのわたしのスタンスとしては、それを完全に分離せず、個人的な体験から社会を考える、というつもりでやってきました。
「社会は個人ではないが、個人は社会である」というのが、わたしの考えです。
個人が抱えている問題とは、すなわち社会の問題の一角である。しかし、社会の問題への解決を個人に押し付けてはならない、と言ったようなイメージです。
 
そういったスタンスで、時には何十ツイートと連続してひとつの問題について考えたり、自分がコンプレックスを持つ(持たざるをえなくなった)理由を考えたりしていました。
そうすると、やはりどうしても、一部分だけが伝わって誤解を生んでしまうようなことが何度か起こりました。最初に但し書きをしたとしても、その部分が伝わらず、センセーショナルな部分だけが広まったり。まあこれは、Twitterというメディアの性質上、避けられないリスクではあります。
 
顕著だったのが、「アンチ腐女子ホモフォビア」について書いた時です。この話も後日改めてまとめますが、ずいぶん前の話にもかかわらず、今朝また部分的に引用されて、主張したことと逆の意味に取られて、批判されていました。(その批判は当時わたし自身がその論の中で既に触れていたものでした)
それで、ああ、ひとつの記事にまとまってないと、余計な誤解を招くなあ、言っていないことで批判されるのはさすがに嫌だなあと思ったのが一点。
 
 
もう一点は、まあ地続きな理由ではあるのですが、扱うネタがネタだけに、色んな人のデリケートな部分に触れてしまい、不要な感情を呼び起こしてしまうからです。
簡単に言うと、不快にさせてしまうことがあるからです。
とはいえ、この点に関しては、悩みました。
「それに対して不快に思うこと」自体の問題性を、語りたかったからです。
だから、本当はTwitterのような開けた場所で、敢えてそういうことを語りたかった。本来不快に思う事ではないのではないか?と思っていたからです。(もちろん節度は守っていたつもりです)
また、わたしのような問題意識を共有している人にとっては、そういうことが開かれて語られる事で、癒されたり、溜飲が下がったりするかもしれないとも考えました。
 
ですが、これはなかなかうまくいかず、問題も起きました。
ここで起きる問題はかなりやっかいです。
相手は善意で、そういうのはやめた方がいいんじゃないかと言ってくれるのですが、わたしはその善意が基づく常識自体を問題化したいのです。それを説明するのは骨が折れますし、まず理解は得られません。
それに、そういう常識で苦しまずに生きている人は、人を苦しめさえしなければ、そのままでいいとも思うのです。
ただ、その常識の上で善意を持ってしまったが故に人を苦しめる、という事態に陥ってしまうと、もうこれは本当ににっちもさっちもいかなくなります。
というのを、ここ数日リアルタイムで体験しまして、不本意な部分もあるのですが、ひとまずはこういう形で隔離しよう、と思いました。
 

わたしが考えていること

そんなわけでブログ開設に至ったわけですが、今回のいろいろで、まず最初に表明しておくべきだな、と思ったことがいくつかあったので、まずそれをお話ししていきたいと思います。
 
  • 「社会」は、ある
わたしが問題にしたいのは、概ね「社会」の問題です。
ですが、「社会」は目に見えません。目に見えるのは個人です。
だからわたしは個人的な経験や、巷のトピックスを通して、語ることで、「社会」の形をつかみ、見えるようにしよう、としています。
コンプレックスの話をするかもしれません。それは、その部分だけ見れば、単なる愚痴や、文句に見えるのかもしれません。
 
でも、本題はそこではないのです。
 
おそらく、目に見えない「社会」というよくわからない化け物みたいなものを、無いと感じている人もいるんだと思います。結局は個人であり、気の持ちようというような、(頭の使い方の中では)体育会系マッチョな考え方です。
当人がそれで幸せに暮らせているのなら、それでいいと思います。
でも、わたしにはそれではダメなのです。
 
わたしは、「社会」はある、という考え方をしています。
個人の行動は社会規範によってある程度コントロールされ、制限され、また個人の行動によって、社会が作られていく。
その前提での問題提起であることをここに明言します。
どうかこのブログを読まれる際は、社会の問題を個人レベルにむりやり押し込めようとしないでください。社会の問題なんてない、すべては個人の問題だと思う方は、お読みになるのは自由ですが、そんなに得るものはないかと思います。
 
  • 問題は、複層的
社会について語ろうとするとき、なかなか一筋縄ではいかない点があります。
それは、1つの問題に関して、複数の層があり、それが複雑に絡み合っているという点です。
抽象的に言うと、一番上の層は、事象、起こっている出来事の層です。その下が感情の層で、さらにその下がその感情の理由となる外的要因の層です。場合によっては、もっと層が多くて、四重にも五重にもなっていることもありますし、同じ階層に並列に2つの問題がある場合もあります。
社会の問題というのは、この一番下の層のことを指します。
 
さらにややこしいのは、この一番下の層は、他の層の根底でありながら、他の層からの影響も受けているということです。
メビウスの輪のようにぐるぐると回ってしまい、起源にたどりつくことは、多くの場合は不可能だと思います。
わたしは、一番上の層を見て、一方では過去のベクトルに向かい、一番下の層まで掘り下げ、他方では未来のベクトルに向かって、今後一番下の層がどう変質していくかを考えるようにしています。
いずれにせよ、とっかかりは一番上の層、出来事の層になるわけです。
この点がまた誤解を生みやすくしてしまいます。
 
出来事や感情は、本人に意識されているものですが、それより下の層は、あまり意識されないものです。意識していないものの話よりも、意識に上っている話題の方がわかりやすく、とっつきやすいと思います。
だから、導入として、出来事や感情を語るのは、効果的でもあるのですが、大事なのは、それは本題ではないということです。
そこで引っかかってしまうと、出来事の物理的な原因や、感情を持つことの自体の善悪みたいな話になってしまいがちです。それは本題ではないのです。
どうか、それを念頭に置いて読んでいただけると幸いです。
問題は、何がそう思わせ、そういう出来事を導いたのか、また、これから何をすれば、そう思わせる何かを良い方向に変えていけるのかです。
 
  • 語ることで癒され、語られることで救われる
これは最初にも少し触れましたが、わたしがTwitterなり、ブログなりを書く理由についてです。
 
ひとつは、考えの整理です。
頭の中だけで考えてるより、人に話してる方が言いたいことや考えが整理される経験、ないでしょうか。わたしはそのタイプです。
ブレストみたいに書き出して整理する人もいるでしょうし、やり方は人それぞれなんでしょうが、わたしは、「説明する」ことで考えが整理されるタイプ。
これに、Twitterっていうのはとても便利なツールだったのです。
思うまま散漫に書いても許されるような土壌ですし、誰かから意見をもらえることもあるので。
 
そしてもうひとつは、社会への影響です。とはいえ、これはごく小さいものです。先ほど言ったように、複数ある層の一番下である社会は、一番上の層の出来事(行為も含まれます)の影響を受けます。まあ、わたしはフォロワーの少ない一般ユーザーの一人に過ぎないので、影響力はたかが知れてますが、百匹目の猿狙いといいますか、まあ、行動しないよりはした方が良いと思うのです。
 
そして、一番重要なのが、癒しの効果です。
これはシンプルで、自分のことを話すと、それだけで楽になることってありますよね。解決が得られなくても、吐き出すだけで楽になること。それです。
で、これは、わたしの話を読んで、共感できた人もまた、癒されるという副効果もあると思うのです。
最初に言ったように、あまり語られない、語ることが良しとされないようなネタも、わたしは扱います。
そういったことって、違和感があったり、嫌だなって思ったりしても、言えないし、他の人の意見を聞く機会もなくて、わたしだけかな?と思ってしまって、よけい悩んでしまうことがあると思います。
そういう時に、誰かが自分と同じような悩みとか、疑問とかを語っていたら、安心したり、すっきりしたり、すると思うんです。
わたし自身、Twitterで、自分と同じくらい自分の性というものに対して価値を見いだせてない人を見かけて、「なぁんだ、わたしだけじゃないんだ」と思い、すこし楽になりました。
だから、誰かがわたしの文章を読んで、そういう気持ちになってくれたらいいな、とは、いつも思ってます。
 

これから考えていくこと

だいぶ長くなってしまっていますが、これで最後です。もう少しだけお付き合いください。
Twitterからこのブログへ、場所は移りましたが、相変わらず色々と考えて、言葉にしていくつもりです。
ですが、Twitterでいろいろと嫌な思いをしたり、させたりした経験もあるので、自戒も込めて、いくつかお約束をしておこうと思います。
 
  1. 誰かの苦しみを否定しません。
  2. 極端にネガティブな発言、自虐的な発言はしません。
  3. 怒りにまかせて、感情的になったり、攻撃的になったりすることはあるかもしれません。後日改めて見直し、不適切であれば修正、削除します。
  4. ここにわたしが書く内容は、引用や伝聞や状況説明などを除いて、全てわたし、ナツメの意見です。発言にきちんと責任を持ちます。
以上のことをお約束します。
 
nach meiner Meinungとは、ドイツ語で、「私の意見では」という意味です。主語のはっきりしたドイツ語や英語などでは、発言の責任の所在は比較的わかりやすいですが、日本語は主語がなくても成立する性質があり、そのせいなのか、発言に責任感が伴わない場面が多い気がします。
わたしは、「自分の責任と考えにおいて発言します」という意思表示をするような、nach meiner Meinungという言い回しが昔から好きです。
 
それでは、これからどうぞよろしくお願いします。