nach meiner Meinung

「わたしの意見では」。主にジェンダー領域に関わるような話を、学問レベルには足りないくらいのところで書いていきます。

nach meiner Meinung はじめに

こんにちは。Twitterからじゃない方ははじめまして。

これまで、Twitterにだらだらと書き連ねていたのですが、いろいろありまして、ボリュームのある話はまとめようと思ってブログを作りました。
 
まずはざっとした経緯の説明と、所信表明みたいなものを書いてみます。

 

ブログにしようと思った理由

わたしは、もともとジェンダー論の勉強をしてましたので、そういう領域の問題については興味があるし、結構呟いてました。
そういう領域、というのは曖昧ですけど、まあ性の絡むことがら全般です。
ですけど、わたしは自分のことをフェミニストだとは思ってなくて。このことはそのうち別にお話しできればと思います。
 
そういう学術的アプローチとは別に、というか、そういった方向に進むようになった経緯に、わたしの個人的なコンプレックスやなんかがあります。
これもまた、必要に応じてお話ししていけたらなと思います。
 
Twitterでのわたしのスタンスとしては、それを完全に分離せず、個人的な体験から社会を考える、というつもりでやってきました。
「社会は個人ではないが、個人は社会である」というのが、わたしの考えです。
個人が抱えている問題とは、すなわち社会の問題の一角である。しかし、社会の問題への解決を個人に押し付けてはならない、と言ったようなイメージです。
 
そういったスタンスで、時には何十ツイートと連続してひとつの問題について考えたり、自分がコンプレックスを持つ(持たざるをえなくなった)理由を考えたりしていました。
そうすると、やはりどうしても、一部分だけが伝わって誤解を生んでしまうようなことが何度か起こりました。最初に但し書きをしたとしても、その部分が伝わらず、センセーショナルな部分だけが広まったり。まあこれは、Twitterというメディアの性質上、避けられないリスクではあります。
 
顕著だったのが、「アンチ腐女子ホモフォビア」について書いた時です。この話も後日改めてまとめますが、ずいぶん前の話にもかかわらず、今朝また部分的に引用されて、主張したことと逆の意味に取られて、批判されていました。(その批判は当時わたし自身がその論の中で既に触れていたものでした)
それで、ああ、ひとつの記事にまとまってないと、余計な誤解を招くなあ、言っていないことで批判されるのはさすがに嫌だなあと思ったのが一点。
 
 
もう一点は、まあ地続きな理由ではあるのですが、扱うネタがネタだけに、色んな人のデリケートな部分に触れてしまい、不要な感情を呼び起こしてしまうからです。
簡単に言うと、不快にさせてしまうことがあるからです。
とはいえ、この点に関しては、悩みました。
「それに対して不快に思うこと」自体の問題性を、語りたかったからです。
だから、本当はTwitterのような開けた場所で、敢えてそういうことを語りたかった。本来不快に思う事ではないのではないか?と思っていたからです。(もちろん節度は守っていたつもりです)
また、わたしのような問題意識を共有している人にとっては、そういうことが開かれて語られる事で、癒されたり、溜飲が下がったりするかもしれないとも考えました。
 
ですが、これはなかなかうまくいかず、問題も起きました。
ここで起きる問題はかなりやっかいです。
相手は善意で、そういうのはやめた方がいいんじゃないかと言ってくれるのですが、わたしはその善意が基づく常識自体を問題化したいのです。それを説明するのは骨が折れますし、まず理解は得られません。
それに、そういう常識で苦しまずに生きている人は、人を苦しめさえしなければ、そのままでいいとも思うのです。
ただ、その常識の上で善意を持ってしまったが故に人を苦しめる、という事態に陥ってしまうと、もうこれは本当ににっちもさっちもいかなくなります。
というのを、ここ数日リアルタイムで体験しまして、不本意な部分もあるのですが、ひとまずはこういう形で隔離しよう、と思いました。
 

わたしが考えていること

そんなわけでブログ開設に至ったわけですが、今回のいろいろで、まず最初に表明しておくべきだな、と思ったことがいくつかあったので、まずそれをお話ししていきたいと思います。
 
  • 「社会」は、ある
わたしが問題にしたいのは、概ね「社会」の問題です。
ですが、「社会」は目に見えません。目に見えるのは個人です。
だからわたしは個人的な経験や、巷のトピックスを通して、語ることで、「社会」の形をつかみ、見えるようにしよう、としています。
コンプレックスの話をするかもしれません。それは、その部分だけ見れば、単なる愚痴や、文句に見えるのかもしれません。
 
でも、本題はそこではないのです。
 
おそらく、目に見えない「社会」というよくわからない化け物みたいなものを、無いと感じている人もいるんだと思います。結局は個人であり、気の持ちようというような、(頭の使い方の中では)体育会系マッチョな考え方です。
当人がそれで幸せに暮らせているのなら、それでいいと思います。
でも、わたしにはそれではダメなのです。
 
わたしは、「社会」はある、という考え方をしています。
個人の行動は社会規範によってある程度コントロールされ、制限され、また個人の行動によって、社会が作られていく。
その前提での問題提起であることをここに明言します。
どうかこのブログを読まれる際は、社会の問題を個人レベルにむりやり押し込めようとしないでください。社会の問題なんてない、すべては個人の問題だと思う方は、お読みになるのは自由ですが、そんなに得るものはないかと思います。
 
  • 問題は、複層的
社会について語ろうとするとき、なかなか一筋縄ではいかない点があります。
それは、1つの問題に関して、複数の層があり、それが複雑に絡み合っているという点です。
抽象的に言うと、一番上の層は、事象、起こっている出来事の層です。その下が感情の層で、さらにその下がその感情の理由となる外的要因の層です。場合によっては、もっと層が多くて、四重にも五重にもなっていることもありますし、同じ階層に並列に2つの問題がある場合もあります。
社会の問題というのは、この一番下の層のことを指します。
 
さらにややこしいのは、この一番下の層は、他の層の根底でありながら、他の層からの影響も受けているということです。
メビウスの輪のようにぐるぐると回ってしまい、起源にたどりつくことは、多くの場合は不可能だと思います。
わたしは、一番上の層を見て、一方では過去のベクトルに向かい、一番下の層まで掘り下げ、他方では未来のベクトルに向かって、今後一番下の層がどう変質していくかを考えるようにしています。
いずれにせよ、とっかかりは一番上の層、出来事の層になるわけです。
この点がまた誤解を生みやすくしてしまいます。
 
出来事や感情は、本人に意識されているものですが、それより下の層は、あまり意識されないものです。意識していないものの話よりも、意識に上っている話題の方がわかりやすく、とっつきやすいと思います。
だから、導入として、出来事や感情を語るのは、効果的でもあるのですが、大事なのは、それは本題ではないということです。
そこで引っかかってしまうと、出来事の物理的な原因や、感情を持つことの自体の善悪みたいな話になってしまいがちです。それは本題ではないのです。
どうか、それを念頭に置いて読んでいただけると幸いです。
問題は、何がそう思わせ、そういう出来事を導いたのか、また、これから何をすれば、そう思わせる何かを良い方向に変えていけるのかです。
 
  • 語ることで癒され、語られることで救われる
これは最初にも少し触れましたが、わたしがTwitterなり、ブログなりを書く理由についてです。
 
ひとつは、考えの整理です。
頭の中だけで考えてるより、人に話してる方が言いたいことや考えが整理される経験、ないでしょうか。わたしはそのタイプです。
ブレストみたいに書き出して整理する人もいるでしょうし、やり方は人それぞれなんでしょうが、わたしは、「説明する」ことで考えが整理されるタイプ。
これに、Twitterっていうのはとても便利なツールだったのです。
思うまま散漫に書いても許されるような土壌ですし、誰かから意見をもらえることもあるので。
 
そしてもうひとつは、社会への影響です。とはいえ、これはごく小さいものです。先ほど言ったように、複数ある層の一番下である社会は、一番上の層の出来事(行為も含まれます)の影響を受けます。まあ、わたしはフォロワーの少ない一般ユーザーの一人に過ぎないので、影響力はたかが知れてますが、百匹目の猿狙いといいますか、まあ、行動しないよりはした方が良いと思うのです。
 
そして、一番重要なのが、癒しの効果です。
これはシンプルで、自分のことを話すと、それだけで楽になることってありますよね。解決が得られなくても、吐き出すだけで楽になること。それです。
で、これは、わたしの話を読んで、共感できた人もまた、癒されるという副効果もあると思うのです。
最初に言ったように、あまり語られない、語ることが良しとされないようなネタも、わたしは扱います。
そういったことって、違和感があったり、嫌だなって思ったりしても、言えないし、他の人の意見を聞く機会もなくて、わたしだけかな?と思ってしまって、よけい悩んでしまうことがあると思います。
そういう時に、誰かが自分と同じような悩みとか、疑問とかを語っていたら、安心したり、すっきりしたり、すると思うんです。
わたし自身、Twitterで、自分と同じくらい自分の性というものに対して価値を見いだせてない人を見かけて、「なぁんだ、わたしだけじゃないんだ」と思い、すこし楽になりました。
だから、誰かがわたしの文章を読んで、そういう気持ちになってくれたらいいな、とは、いつも思ってます。
 

これから考えていくこと

だいぶ長くなってしまっていますが、これで最後です。もう少しだけお付き合いください。
Twitterからこのブログへ、場所は移りましたが、相変わらず色々と考えて、言葉にしていくつもりです。
ですが、Twitterでいろいろと嫌な思いをしたり、させたりした経験もあるので、自戒も込めて、いくつかお約束をしておこうと思います。
 
  1. 誰かの苦しみを否定しません。
  2. 極端にネガティブな発言、自虐的な発言はしません。
  3. 怒りにまかせて、感情的になったり、攻撃的になったりすることはあるかもしれません。後日改めて見直し、不適切であれば修正、削除します。
  4. ここにわたしが書く内容は、引用や伝聞や状況説明などを除いて、全てわたし、ナツメの意見です。発言にきちんと責任を持ちます。
以上のことをお約束します。
 
nach meiner Meinungとは、ドイツ語で、「私の意見では」という意味です。主語のはっきりしたドイツ語や英語などでは、発言の責任の所在は比較的わかりやすいですが、日本語は主語がなくても成立する性質があり、そのせいなのか、発言に責任感が伴わない場面が多い気がします。
わたしは、「自分の責任と考えにおいて発言します」という意思表示をするような、nach meiner Meinungという言い回しが昔から好きです。
 
それでは、これからどうぞよろしくお願いします。