nach meiner Meinung

「わたしの意見では」。主にジェンダー領域に関わるような話を、学問レベルには足りないくらいのところで書いていきます。

コミュニケーションスキルとしての自虐

「卑怯な自慢」をするひとたち

あの、わたし、公式なニュースなり、記名の記事なりは取り上げるし、個人の私的なツイートも、批判とかでなければ取り上げるんですが、
今回話題にしたいことは、その人の性格に難癖つけてるみたいになってしまいそうなので、ここに引用はしません。
ので、前段はふわっとした物言いになってしまうのですが、気になる方は調べるか、わたしにこっそり聞いていただいて。
じゃあ、始めます。

少し前、とあるツイッターユーザーのつぶやきをスクショしたものが、TLに流れてきました。
そのスクショの内容は、なんというか、まあ、端的に言えば、自慢でした。
ただ、分かりやすい、いいでしょ! すごいでしょ! という自慢でなく、こう、なんと言えばいいか…。
褒められたりした内容を書きつつ、それに対して全然喜んでない、時によっては不快な「フリ」をして、そのツイートを見た人から、さらにその褒め言葉を引き出そうとするような内容、という感じでしょうか。
これね、載せられないのが非常にもどかしいですが、こっちが非常にフラットに見ていても、そう感じる書き方なのですよ。別に妬み嫉みとかではなく。
それ、言う必要ある? と感じるというか。その言葉の裏にものすごい肥大した自意識を感じるんです。(わたしに「肥大した自意識」と言われるって相当だとおもいますけどね!)
これね、なんか似た感じの例文をわたしが考えて書いた方がいいですね。きっと。

…と思って数分悩んだけどだめだ、わたしも自意識は肥大してるけど、完全に自虐の方に振り切れているので、全然思いつかない。考えているだけで恥ずかしくなってしまった。
ので、まあ、原文ママでないので許してもらうとして、その当該アカウントのある発言の、概要だけ説明しますね。
彼女は、とある、有名な美女キャラクターに似てるとよく言われると。そこで、嬉しいとか申し訳ないとか、そういう感想ではなく、彼女は、「最初はそのキャラクターを知らなかったから、なんのこと?と思った」と続けてしまう。

まあ、説明にしちゃうと伝わらないんですけど、つまり、「○○に似てるとよく言われて、今日も言われたのだけれど、最初の頃は○○を知らなくて、○○って●●(似た言葉)のことかしら?と思ったものだった」みたいな感じですね。
この、「たのだけれど」「ものだった」って感じも含めて、この違和感ですよ。
要は「美人と言われた」んだけど、そういう風には捉えてませんよ、むしろ何のことかわかりません、というアピールをしつつ、じゃあ言わなくてもいいのに、美人と言われたことはしっかり主張する、みたいな。
そのスクショをツイートした人も、素直に「わたしすごいでしょ!」って言って欲しい、とのコメントをつけてツイートしてたんですね。

んで、まあ、よくよく見渡してみれば、この手の人って結構いて。わたしの周りにもいるんですよ、こういう、卑怯な自慢をするひとって。
自慢を、気にしてないフリしつつ書いて、その出来事に対して「すごいね」「さすがだね」って言わせようとする人。
でも、本当に気にしてなかったら、わざわざ書かないですよね。書くってことは気にしてるわけです。気にしてませんよ、と書くこと自体が、不自然で、卑怯だなあと思います。

まあ、とはいえ、別にあげつらって叩くほどのことでもないと思うんです。
わたしはこの彼女をどうこう言いたいと言うより、なぜ彼女に対してわたし(たち)は違和感を持つのか? というところが気になっていて。
行き着いたのが、彼女のツイートには、「自虐がない」からではないか? というところでした。

 

例えばわたしなら

例えば、さっきの美女キャラの話、同じことをわたしがツイートしたらどうなるのか。
こうなります。
「今日○○に似てるって言われた!恐れ多い!ありがてえ!!たまに言ってもらえることがあるんだが、でもね!聞いて!わたしは!!ただ天パで眠そうなだけなんだ!!!それ以外に似てるとこはないんだ!!!」
「むしろなんか気を使っていただいたんだと思うので申し訳ない。。。でも実は結構嬉しかったです。。。」
まあ、天パで眠そうな美少女キャラはまずいないと思うけど、特定のキャラを想定しない例文なのでこんな感じで。
これが正解かどうかは別にして、このアウトプットになるには脳内で以下のプロセスがあるわけです。

褒められた(褒めたのかは厳密には不明だが、嬉しいことを言われた)
→嬉しいから言いたい、でも自慢と思われたくない
→それに、喜んじゃってるけど多分相手もお世辞で言ってるだろうから、その辺も分かっていたい
→でも言いたい
→まず喜びの報告
→次に、その褒め言葉が本来の自分に対し過剰評価であり、ほんとの自分は大したことがないというのをわかってますよというアピール
→お世辞を言わせてしまったことへの謝罪
→からの、とはいえ相手が良かれと思って言ってくれたことだろうから、最後は感謝で締めたい。

我ながらめんどくせえ…めんどくせえけど、褒められた話をネットで公開するって、それくらいデリケートなものだとも思うんです。

 

海外勢も自虐するらしいぞ

この件については、完全にリサーチ不足で申し訳ないんですが、この話を友人にしたときに、面白い情報をもらいました。
「海外のアニメファンの掲示板まとめ読んでるけど、海外勢ですら自虐するのにね」
とのこと。
そのまとめを見てみたんですが、わたしはアニメをほぼ見ないのでそもそも元ネタがわからず、例として適切な発言を見つけられなかったのですが。。。
自分に自信がなく自虐的で卑屈な日本人と、自信があり堂々と正しいことを主張する欧米人、というテンプレはもう通用しないのかもしれないなあ、と思いつつ、こんなことを考えました。

 

自虐は次世代のコミュニケーションスキルではないか?

わたしがさっきのような自虐的な物言いを敢えて用いる理由としては、「感情の伝わりづらい文字コミュニケーションを円滑に進めたい」という意図があるわけです。
不特定多数の匿名の人物が集まる掲示板で、海外勢が用いる自虐ネタも、おそらくそういう側面があるのではないかと。
一方で、それを用いなかった、冒頭のツイッターユーザーは叩かれてしまった。

これは、コミュニケーションツールの変化(インターネット上での未知/不特定の相手との文字のみのコミュニケーションの増加)に伴って生まれた、新しいコミュニケーションの様式ではないか? と思うのです。
なので、実際の対面のコミュニケーションでは、この様式はあまり推奨されません。
困ったことに、明るく積極的ではきはきと、それでいて上に従順で文句を言わない旧弊的な体育会系思考停止型コミュニケーションが、ことビジネスにおいては良しとされます。
自虐というコミュニケーション方法は、他人にとって望ましくない可能性がある発言をする際の、いわば免罪符なのかな、と。

あと、やっぱり、自慢する人って、客観的じゃない感じがします。それが、こう、見ててすごく恥ずかしい。
冒頭の彼女は、自慢は恥ずかしいとわかってるのに(だからあからさまに「いいでしょ!私美人なのよ!」とは言わない)、ついつい褒め乞食をしてしまっている。
その恥ずかしさに向き合ってないんですよね。だったら「いいでしょ!」って言われた方が何倍も可愛げがある。と思う。
まあ、それを恥ずかしい、と感じるは、おそらく、そういう要素がわれわれにも、誰にでもあって、でもそれは恥ずかしいことだから、と思って、自分で制限してることだからなんでしょうね。
(あと彼女は、基本的に褒めてくれた人への感謝とかコメントが一切なく、言ってくれた人がどう思ったのかなみたいな想像力がなくて、自分が褒められたという事実しか大事でない感じの書き方なので、それも大きい気がします。これは自虐と関係ないすね)

ちょっと話が散漫になってしまいましたが、言いたいのは、自虐は次世代(当世代)の(文字)コミュニケーションにかかせない、必須スキルなのではないか、ということです。
自虐を用いたコミュニケーションの様式が確立されつつあり、それをうまく用いれば、誤解を招きやすい、文字でのコミュニケーションがスムーズになる。
なぜ自虐なのか、というと、おそらく、文字でのコミュニケーションは(チャットだとしても)実際の会話よりも「ひとりで語る」ようになってしまう部分が多く、誰しもがある程度自意識を強く認識せざるを得なくなるからじゃないかな、と。
自分の自意識が強くなってるときって、人の自意識にも敏感になるものです。
お互いの敏感な自意識に配慮した結果が、自虐というかたちなのかな、と。

この「自虐」と「謙遜」の違い/関係性など、もう少し突き詰めたい部分もありますが、今回はこんな感じで。

ちなみにわたしの自虐は基本的に度を越しているらしいので真似しないでね!(よく、「そんなに卑屈にならなくても…」って言われるよ!)