フェミニズムとコンプレックスとわたし
前段
きっかけはこのツイートを見たことです。
こういう話をちゃんとする人がいないから、フェミニズム=禁欲主義みたいになっちゃったのかな。https://t.co/dzNJlKEQnMhttps://t.co/2yfUxFoJ4E
— 桜野時生 (@TokioSakurano) January 31, 2016
この段階で、わたしはこの「フェミニズム=禁欲主義みたいになっちゃっ」てるという言葉の指す具体的な意味を知らなくて、単に「一般的な」みたいな意味だと思いました。
これに対しわたし。
このMVはとっても面白いんだけど…個人的には、様々なボディイメージを肯定すべきという論はフェミニズムではもはや語り尽くされてるし、女性を性欲の主体として語るアプローチもとても「フェミニズム的」だと思うんだよね…つまりフェミニズム=禁欲主義はエセフェミの撒き散らした誤解でしかない
— ナツメ (@frogfrogfrosch) January 31, 2016
まあだから、悪いのはエセフェミであって、別にそう思ってしまう(思わされてしまった)普通の人は悪くないんだけど、わたしが言いたいのは、そういう話をちゃんとする人はこれまでもたくさんいたということです。わたしも話してるし。
— ナツメ (@frogfrogfrosch) January 31, 2016
で、このあと手繰っていくとこんなものを発見。
アニメ・漫画オタクの人(以下オタク)へ質問。フェミニズム(或はフェミニスト)に対してネガティブな印象を持っている理由でもっとも近いものはどれですか?
— 涼風紫音/梟の社元店主/樺太府事務官 (@sionsuzukaze) January 30, 2016
これに対するリプライに、以下。
@sionsuzukaze @ruriko_pillton 根源で誤認があると思います。 今話題になっている、「まなざし村」とはフェミニストと切り離して区別する為の呼称なのです。 オタ界隈が敵視しているのは、フェミの皮を被った性潔癖主義者達なのです。 混同は要らぬ誤解を招きます。
— 衛生兵 (@combatmedic) January 30, 2016
@ruriko_pillton @sionsuzukaze フェミとまなざし村民(似非フェミ)は混同してる人も多いので、涼風氏が故意でなければ風評が広まる前に早く訂正して欲しいところです。 似非フェミは女性の味方の振りをしておきながら、実は女性を抑圧する側の人種なので。
— 衛生兵 (@combatmedic) January 30, 2016
と、ここでようやく、「まなざし村」というキーワードが今上がっていて、最初の「フェミニズム=禁欲主義みたいになっちゃっ」てるというのも、おそらくこのことだろうと気づきました。
おいでよまなざしの村 - Togetterまとめ
↑これが発端のようです。長いので頭の方しか読んでません。
簡単に言うと、巨乳海女ポスター問題に代表されるような、マンガアニメ領域に対して敵意をむき出しにする「自称・フェミニスト」たちをくくって揶揄するような話のようです。
ふむ。
この話題に対して、わたしは非常に居心地の悪い思いがしたんですね。
なんというか、立ち位置が取りにくいんです。
たまたま、先に引用した自分のツイートの中でも、「エセフェミ」という言葉を使いましたが、そういうのとは一線を画したい。
でも「エセフェミ」は、論点や論法は間違いだらけだけど、彼らが攻撃している対象が必ずしも批判に値しない、というわけでもなく、たしかに問題がある場合も往々にしてある。
なんてなことを考えつつも、わたしはこんなツイートをしました。
フェミは非モテの負け犬の遠吠え、というのはよく聞きますが、それはもてない女が性を憎んでフェミのフリをしてるだけで、その終着点がまなざし村なわけですね。一方で意識高いリベラルヤリマンフェミもいる。どっちにも与することはできないですね。まあ非モテのわたしが言っても信憑性ないでしょうが
— ナツメ (@frogfrogfrosch) January 31, 2016
これはつまり、何が言いたいのかというと、「わたしはエセフェミじゃない」ということなんです。
「まなざし村」はほとんど絡んでこなくなると思いますが、わたしの私的なコンプレックスとフェミニズムのややこしい話なんかをしようかな、というのが今日のテーマです。
(ほんとはツイッターでだらだらまとめずに書きたいんだけど、なんのためのブログだってなるので…でもブログ用にまとめてもいないので、今日もだらだらいきます)
「非モテのわたし」
それが、コンプレックスとしてひじょーに「ダサい」ということは重々承知なのですが、
まあー、モテない。
わたしの半生は、もうね、モテない。の一言で集約されるような、そんな人生でした。
この話は今後繰り返ししていくことになると思うのですが、とにかくね、ひどいもんですよ。
学校はずっと共学でした。中学から一貫校の私立に通ってました。私服だったので、制服という「女子」の記号を身につけた経験はありません。
中学時代、色恋沙汰なし。
高校時代、彼氏なし、男の子から告白されたこともなし。
(※ただしこの時期女の子と付き合っていて、後に自分はヘテロであると自覚するのですが、それはややこしくなるので今回は話しません)
大学時代、入学直後にサークルの男の子に一目惚れされるも付き合わず、ふった直後別の女の子と付き合っていたので、わたしじゃなくても良かったことが判明。その後色恋沙汰なし。
大学院時代、やっとロストバージン、その時わたし、24歳。
そう、わたしは24まで処女だった。24歳処女。どうなの?これ?
いや、統計的に言えば、いまやそれは「一般的」あるいは「平均的」であるかもしれない。
でも、精神的、イメージ的にはどうなの。「ヤラハタ」という言葉を最近知ったけど、20歳で未経験なことも「やらずのハタチ」として敬遠されるのに、それからさらに4年。
どんな女が想像されるんだろう。あか抜けていなくて、不潔で、醜く、性格が悪い。
だいたい、「女の価値」っちゅーものに、「若さ」は間違いなく含まれている。
若いのに、セックスの対象にならない女って、どうなんだ。それってもはや女じゃないんじゃないか?
とはいえ、周りにもいます、処女だという友だち。
彼女たちにそんなマイナスイメージは持たない。
それはみんな可愛くて、性格がいいことを知ってるから。
彼女たちが未経験だという理由は、自分にとっていいと思える相手がいないからだったり、本当は魅力的なのに自分に自信がなく積極的になれないからだったりとか、あるいはそういった人間関係を単純に必要としていないからだったりして、
彼女たちの落ち度じゃない。
でもさ、自分は違う。
わたしはセックスしたかったし、自分は魅力的だと、かつては、勘違いしていた。
この言い方は非常に誤解を招くと思うが、また後日ちゃんと話すので赦して欲しい。
と言い訳した上で言うと、わたしはただモテないどころか、水商売のスカウトもされないし、究極的に、痴漢にも遭いません。
恋愛対象にならないし、金銭的な性的価値もない、ただ浪費する性としてすら見なされない。
ひくわーーーーーー
何が悪いのかわかんないですが、わたしは決定的に、女として失敗しているようなのです。
外見がわるいのか、性格がわるいのか…。
自分の目には外見は、低く見積もっても下の上~中くらいだと思っているので、まあぎりぎり普通の範囲には収まると思うので、性格の問題でしょうか。(ちなみにほんとは中くらいだと思ってます、思い上がりすみません)
でも水商売のスカウトや痴漢は、わたしの性格を知らないはずなので、やはり見た目でしょうか。
ま、そんな感じで、わたしはよくいる「非モテ」のひとりです。
ほかの非モテのひとも、多かれ少なかれこんな悩みを持っているのかなあと(ちなみにわたしは、今まで長々書いた自意識自体の問題点もある程度自覚してますが、それはまたいつか)。
でもね、非モテこじらせてエセフェミになるひととは、わたしは違うんです。
と主張する理由を以下に。
わたしが非モテなのは誰のせい?
『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』というマンガがあるらしいですね。
読んだことないですけど、たぶん「まなざし村」にいる非モテのエセフェミのひとたちはこれに近い考え方をしてるんだと思います。
非モテである→モテを肯定すると辛い→モテ=性的に見られることを「悪」とする→性的に見るもの≒男性を「悪」とする→性にまつわることをまるっと憎む、「悪」として攻撃する
とまあ、こんな感じの図式だと思うんですね。
つまり、非モテの原因を自分の外側に求めている。
自分を変えずに、周りを変えようとしてる。
ちなみになんで彼女らが「フェミニズム」という学問と結びついてしまったのか、ですが(本当はこっちが重要で精査する必要があると思うんですが)、
本来的に「フェミニズム」は「男性主体の言語文化によって形づくられた、“男性らしい男性にとって都合の良い”“女性らしさ”を解体する」ようなアプローチだと思うんですよね。
だから、フェミニズムは「女性」を解体するもので、「男性」を攻撃するものではない。
でも彼女たちはそれがわからないんですよね。
たとえば、いわゆる「性の二重基準」、ダブルスタンダードも、あれは矛盾するものを求める「価値観」を指摘したものであって、それに縛られているのは男性もそうなんですよ。個人の意思を超えたところで、その価値観を内面化させられてる。
それがわからずに彼女たちは、「その価値観は男性が女性に押し付けてる!」とかって使っちゃうんですよ。
しかもこの段階になってしまうと、もはや自分の非モテの理由、とかいうそもそもの話が忘れられてる。
憎しみの原因はそこにあるんだけど、それを忘れて、ただただ憎らしい「性」と「男」を叩きたくて潰したくて、支離滅裂なことを言っている。
ま、ここは話していくと正当な「フェミニズム」の話になるので、今日はこの辺で。
じゃあわたしは何が違うかというと、わたしは自分がモテないのは自分のせいだと思っているんですね。
それは、さっきの文章からも明らかですよね。
わたしになにか重要な欠陥があるから、わたしは性的な存在ではいられなくて、まともな普通の女の子なら性的な存在で居られるはずだ、と。
こういう語り口な時点で、わたしは性を否定してないし、性的に見られたいと思ってる。
そうだ、わたしはモテたさを捨ててないんですね。
たぶん、まなざし村民は、自分がモテたいと思ってることを認めたくない。
認めたら惨めになるから。「モテ」なんていう価値観が間違っているのであって、私はそんなものに惑わされない! というスタンスでいたいんじゃないかしら。
非モテを自分で認めているメリット
たしかに、わたしは惨めです。モテたいのにモテないから。人並みに普通で居たいのに普通ではないことを自覚してるから。
ただ、わたしのスタンスでも、外側の問題に目を向けることは出来ます。
男性や性を憎まず、「男性」や「女性」や「性」を規定している、「常識」「ふつう」みたいな共有された価値観――こういうものの話をするとき、ジェンダー論界隈ではよく「法」という言葉を使いますが――そういったものに問題はないのか? というアプローチですね。
これは、本来的な「フェミニズム」あるいは「ジェンダー論」の観点だと、自分では思っています。
性欲そのものは悪いものではないです。男性が女性を性的に見ることも悪くない(反対もあるし同性間も、性別という概念を介さないこともあるかもしれない)。
でもその中で「非モテ」が苦しまなきゃいけない理由もないわけです。
その問題の解決には、「モテ」とか「性的である」こととか、それをどう捉えるか、というレイヤーの方が重要なわけで。
なんて話も、本筋の「フェミニズム」の話になってしまいますね。
まあ、雑にいうと、わたしは「まなざされない者」なので、当然「まなざし村」とは関係がないのです。
というか、自分だって「まなざされない」のに、自分のことを忘れて「男性」から「巨乳アニメキャラ」へのまなざしに怒っているというのは、なんともまあ、滑稽です。
そういうことをするから、「ブスのババアフェミキチがヒステリーを起こしてる」なんて思われるのです。
なんにせよ、こと性の領域を語るなら、自分の身を削って、自分の立ち位置を明らかにしなきゃいかんのです。
モテないなら、モテない私、という立場からモノを言わないと、それは欺瞞になってしまう。
わたしはコンプレックスが深いですが、その分自分の立ち位置を自覚して話すことが出来ます。
それが「まなざされない者」という類型にないものなので、なかなか困難がありますが…。
ちなみに冒頭で引用した自分のツイートにある、「意識高いリベラルヤリマンフェミ」ですが、これは性的に解放された女性を賛美するという類型で、非モテエセフェミよりはずいぶん質が悪くないとは思いますが、彼女たちは非常に女性原理主義的で、つまり、「女性」という単一の価値観、女性であるということに単一の判断基準が確固として存在すると信じ、「先天的に女性である」ことをアイデンティティにして、それを共通項としてつながり、徒党を組むことが当たり前に出来ると信じ込んでいるので…
まあ、簡単に言えば、彼女たちは、わたしのような「まなざされない女」がこの世にいるなんて考えてもいないのです。
女性の性を肯定するのは、現状に対しては一歩進んだ良いアプローチだとは思いますが、彼女たちにとってわたしは「存在自体が理解できないもの」になってしまうので、やはり与することはできないですね。
結~フェミニズムとわたし
まあ、こんなような理由で、わたし個人としてはとても真っ当に、誠実にフェミニズムの問題と向き合っているつもりなんですが、
世間で言われているフェミニズムのイメージ/あるいは実際によく見る「自称・フェミニスト」の派閥や類型と、わたしのスタンスはどうも合致しない。
「まなざされない」というスタンスで語られているフェミニズム論・ジェンダー論を、寡聞にしてわたしは聞いたことがありません。
もし知ってたら教えてください。純粋に知りたい。
わたしは、わたしの認識している意味合いの中では「フェミニスト」と名乗っても構わないとは思っているのですが、その言葉から世間の多くが受け取る意味は、わたしの意図とは相当離れてしまうんだろう、とは思っています。
なので、まあ、こういう「フェミニズム」にまつわる話題が出ると、なんとも居心地が悪くなってしまうんですよね。
わたしの意見を言う前に、何重にもあるその「認識の違い」の話をしなきゃいけなくなるので。
今回はなんというか、うまいことというか、その「フェミニズム」そのものを揶揄するような話題だったので、考えがてら書いてみました。
結構いろいろ問題の種をまいてしまった気もしますが…
まあ、今日はこんなところで。次はもうちょい面白いことを書きたいです。
シリーズ拡大解釈1・ドラクエの花嫁論争で死にたくなった。
シリーズ拡大解釈とは
ドラクエ花嫁論争
何故フローラのことを考えて鬱になったか
- 交換条件にされてるのが辛すぎる
- 主人公にとって交換条件として提示されて成立するのがイヤ
- しかも自分と引き換えなのはたかが防具
- もし主人公がフローラを選んでも地獄
- そもそも父親がわるい
- というわけでナツメの選択は幼馴染一択
- ちなみに、もし自分が「選ばれてしまったフローラ」だったら
ちなみに実際はそんな話じゃないらしい
- わたしがいかに愛されないことに怯えているか
- にもかかわらず、「愛されない」ものに積極的に同化していってしまう姿勢
- 超自罰的な思考
切り取られた身体は誰のものか
こんにちは。
今回は盗撮についてのニュースを扱いますが、わたしは盗撮を肯定しません。犯罪行為と認識していますし、罰されるべき、防止されるべきだと思っています。
以降、本文中に、「盗撮を否定するわけではない」と読み取れる文章が登場する可能性がありますが、それはそれ以上の意味はなく、わたしは常に上述の前提に立っています。
誤解を招かないように気をつけはしますが、読者の皆様におかれましても、以上を念頭に置いてお読みいただければと思います。
さて。
「道になりたい」の人、再犯したらしいですね。
「側溝に5時間いた」…のぞきの疑いで28歳男を逮捕 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
前回も、見つけた人はそりゃあもう(ホラー的な意味で)怖かっただろうなあと思ったので、よく覚えてました。
今回は、このニュースと、それを見て思い出したことから、わたしが抱いている次の疑問について考えてみようと思います。
それは、切り取られた身体は一体誰のものなのか?という疑問です。
側溝盗撮と「脚」盗撮
昨日このニュースを見て、ふと思い出したのが、何年か前にTwitterで見かけた、コミケでの盗撮に対する注意喚起のツイートです。
ちょっと探したのですが、だいぶ前なので見つからなかったので、うろ覚えですが。
内容としては、「最近コミケで脚の盗撮をするやつが出没している。コスプレイヤーのみならず、ミニスカートやショートパンツを履いた売り子、一般客も被害に遭っているので注意されたい」というものでした。
「脚」という部分のみを狙い、多数の女性の該当部分を撮影しようとしたその脚盗撮犯と、今回の側溝男は、なんだか似ているなあと思ったのです。
たぶん、わたしが気になった部分は「個人を識別せず、脚やパンツ(局部)といったパーツのみに執着しているように見える」という点なんだと思うんですね。
「この娘可愛いからパンツ見たい」ではなく、「女性の脚を見たい、写真に撮りたい」「女性のパンツを見たい、写真に撮りたい」という動機だと思うんですが、わたしが気になっているのは、その動機そのものというよりは、犯人たちが向けている視線のベクトルと、こういったニュースに対峙した時に女性たちが感じているベクトルが噛み合っていない? ように感じる? という部分なのです。
「パンツ」を撮ったのか、「私」を撮ったのか
※再び注意です。
まず何より優先されるべきなのは被害に遭われた方の心理状態だと思います。被害に遭われた方が傷つくのは当然だと思います。
そういった方々にはなんの落ち度もありませんし、犯人は罰されるべきだと思います。
ここから先には、被害者の方々の思いや考えとは、違う意見、見方が出てくるかもしれません。
しかし、それは被害者の方を否定するものでは決してありません。
犯人に寄り添うつもりはありませんが、犯人の心理状況を想像してみようとする試みが含まれます。
ここまでの説明で、不快になりそうと感じられた方は、申し訳ございませんが、ここから先をお読みになるのはご遠慮いただければと思います。
ご了承いただけましたら、引き続きお読みください。
「道になりたい」のニュースで、犯行があった道を利用する女性へのインタビューをやっていました。
主に20代くらいの女性たちで、みんな「こわい」「気持ち悪い」と、恐怖感や不快感を露わにしていました。(とはいえ、少し笑っちゃっていたのも印象的でした。その気持ちはわかる気がします)
んで、わたしはそれを見て、「ふーん、そんな感じなのかぁ」と思ったんですね。
というのも、わたしは、そんなに自分ごととして捉えられなかったからです。
わたしがこわいと思うのは、「側溝覗いたら目があったらすごく怖いだろうなあ」というその一点のみで、「側溝の中からパンツを見られている」ことにはそんなに恐怖を覚えない、覚えられないのです。
インタビューの女の子たちは「階段とかなら(スカートの中が見えないように)気を付けるけど、こんなところ(平たい道)では気をつけられない」と言っていたので、彼女たちが「こわい」「気持ち悪い」と言っていたのは、あり得ないところから人の目玉が覗いていることではなく、知らない男が自分のパンツを見ようとしていることだと思って、おそらく間違いないと思います。
そして、この感覚は至極真っ当だと思います。
たぶん、わたしの感覚の方がずれていて、それはなぜかと言うと、わたしは「見られる」という体験ではなく、犯人の目線、つまり、「彼は何を見ようとしていたのか?」に重きを置いて見てしまってるからです。
そして、「彼は何を見ようとしていたのか?」の答えは、おそらく、「女性のパンツ」であって、「私」ではないと思うのです。
仮にその時見られたものが、「私の所有物であるパンツを着用した私の局部、並びに脚部」だったとしても、犯人の「道になりたい」さんからすると、その目の前の物体に「私」という要素は一切付与されておらず、それは単に「女性のパンツ」という彼の求める概念(しかもそれには「道になったような視界で体験する」という条件が付与されている)の具象化のひとつの形にすぎないのではないかと。
だから、つまり、彼は「私」を見、盗撮したわけではないと思うのです。
まあ、だからと言ってやっていいわけでも、許されるわけでも当然ありません。
実際に「見られた」人にとってはおそろしく、不快な体験であったことは容易に想像できますし、本当に迷惑な行為だと思います。しかも再犯。
なので彼ベースで語るのはここまでにして、ここからはわたしベースで考えていきましょう。
わたしにとっては、彼の目に映る、「個人性が排除された女性のパンツというイデアの具象化」は、もはやわたしだとは感じられないのです。
わたしは切り取られた身体の一部の視覚的情報を、自分のアイデンティティに含めていないということだと思います。
実際、ほかの方はどうなのでしょうか? 脚盗撮問題で言えば、本当に、脚のごく一部分が切り取られた写真を見て、「これは“私”だ!」と思うものなのでしょうか?
切り取られた身体は誰のもの?
おそらく、今回の疑問を本当に精査するためには、フェティッシュを持ち出さなければならないと思います。
ですが、まあ、このブログはあまり専門的になりすぎない(というか、そこまで調べられない)のもアリというスタンスでやりたいので、今回は参考資料なしで、わたしの頭のなかのことだけで書いております。
といいつつこんな言い方になってしまうのですが、身体に向けられる視線というのは、とても細分化されてきていると感じています。
これは、「要素萌え」的な消費スタイルの延長なのではないかと思います。
このキャラクターの全体が好き! ではなく、ツインテールが、ピンク髪が、ツンデレが、好き。そういう好意や欲求の持ち方が今ではごくごく一般的だと思います。
例が漫画アニメ的な文法に寄りすぎてしまいましたが、要素はなんでもいいのです。要は、似た要素を持ったものなら代替可能な好意、欲求なのです。
これが、昔は無かったかと言われると、そう断言する根拠をいまわたしは持っていません。
昔からある消費スタイルかもしれない。でもたぶん、インターネットの発展、とくに情報の受け手だった消費者が自ら情報発信することが一般的になったことで、それが表面的になり、そういった消費スタイルが肯定されているような空気になってきた、ということは言えるんではないかなと思っています。
キャラクターとか、ものとか、そういうものに対しては、別にこういう「要素萌え」をしてもあまり問題はないと思うのですが、この視線が「ひとの身体」に向くと、なんだか少しややこしくなる気がします。
キャラクターそのものには作者がいますが、キャラクターの要素自体には所有者がいません。
でもひとの身体には、所有者がいます。
本来的にはひとの身体は切り取れない(物理的な意味で)のですが、視線や、その代替物としてのカメラで、擬似的に切り取ることが可能です。
もちろん、写真という表現は昨日今日出て来たものではありませんし、その歴史の中で、身体の一部のみを切り取った作品がなかったとも言いません。
…なんか、今更な話ですし、犯罪を起点にしているので誤解を招いてしまうような話の展開になってしまったなあと、書きながら気づきました。すみません。
書くことで整理してる部分が大きいので大目に見てください。
さて、話を戻して。
時代性でないにしても、その擬似的に切り取られた身体は、すでに「その身体の所有者」のものではないのではないか? という疑問は成立するかと思います。
個人を識別するのは、視覚的にはやはり顔が一番のポイントになるかと思います。ついで背格好などの全体的なシルエットや印象、そのほか、特徴的な黒子や傷があれば、それもポイントになるでしょうが、そういうものがない場合、部分的になればなるほど、個人を識別することは難しくなってきます。
たとえば、AKB48のおそろいのライブ衣装を着た、その靴下とスカートの隙間、いわゆる絶対領域だけを切り出して、その人物を当てることは出来るのでしょうか。
もしかしたら、コアなファンなら出来るのかもしれませんが、普通は無理だと思います。
そして、本人も、わからないんじゃないかと思います。
そうなった時に、その画像に写っている絶対領域は、誰のものなのでしょうか?
何度も言います。
盗撮されて不快なのは当然です。嫌がっていいんです。犯人がやったのは悪いことで、許されないことで、罰を受けるべきなんです。
だから、わたしがこう思ってしまうのは、わたし自身のコンプレックスによる認識の歪みのせいも、きっと多分にあるのでしょう。
でも今回はそれを棚上げして言います。戯言なので真に受けなくていいです。
どうしても、わたしには、「脚を盗撮された」、とか、「側溝からパンツを覗かれた」という感覚が、すんなり入ってこないのです。
切り取られた身体はすでにわたしのものではないと思ってしまうのです。
盗撮行為、あるいは(隠された部分を故意に暴く)覗きという行為は、処罰の対象で、許されるべきではない。それはすんなりと落ちる。
でも、それ以前に、そういった犯罪行為に走るまえに、彼らが視線を用いて「私」(彼女たち)の身体を切り取っていることは、罰することも、止めることも出来ないと、思ってしまうのです。
切り取られた身体が自分の所有物でないとしたら、主張できるのは「私の身体を勝手に切り取らないで!」ということだと思うのですが、写真という有形物として勝手に切り取ることはやめさせられますが、見ることをやめさせることは出来ない。
だとしたら、根本的には解決してないような気がするなあ、とも思ったりしてしまうのです。
今回は着地点を設定できないまま書きはじめてしまったので、なんだかまとまらない話になってしまいました。
オチはないのですが、冒頭から言っているように、「切り取られた身体は誰のものなのか? その身体の持主のものなのだろうか?」という疑問自体を、言いたかっただけというのが、本音かもしれませんね。
まとまりませんが、今日はこの辺で。
nach meiner Meinung はじめに
こんにちは。Twitterからじゃない方ははじめまして。
ブログにしようと思った理由
わたしが考えていること
- 「社会」は、ある
- 問題は、複層的
- 語ることで癒され、語られることで救われる
これから考えていくこと
- 誰かの苦しみを否定しません。
- 極端にネガティブな発言、自虐的な発言はしません。
- 怒りにまかせて、感情的になったり、攻撃的になったりすることはあるかもしれません。後日改めて見直し、不適切であれば修正、削除します。
- ここにわたしが書く内容は、引用や伝聞や状況説明などを除いて、全てわたし、ナツメの意見です。発言にきちんと責任を持ちます。